| 1. フェント村で聞いたこと、また、文庫本で書かれたことなどをまとめて、
もう少し詳しく「5000年前の男」について紹介しておきたいと思う。
私たちが訪れたフェント村は、エッタール渓谷の最奥であり、ここからは道路はなく登山道のみで、すでに書いたように、フェント村の奥の氷河が覆う標高3,606mのシミラウン峰の鞍部にシミラウン・ヒュッテが建っている。この小屋を越えてイタリア側に進むと、イタリア領南チロルのフェルナークト村に到達する。フェント村とフェルナークト村を結ぶアルプス越えの避難小屋として、200年前にシミラウン・ヒュッテが建てられたと伝えられている。
イタリア側のフェルナークト村は南チロルのヴェノスタ地方であり、アイスマンが持っていた石器類から、この石器はイタリアのガルダ湖の近辺が産地であることがわかった。ミイラの発見地から140キロ南ということになる。
文献によれば、フェルナークト村の人たちが、800年前から夏の初めに羊などを連れて山を越えてフェント村にやってきて、秋には帰っていくということが繰り返されていたことがわかっている。これらの人が一部フェント村に残り、その人たちによってフェント村の起源が始まったと推測されている。
1919年まではフェント村は、宗教的にはヴェノスタ地方の教区に属していたということであり、1300年頃の文献では、フェント村は「セナレスのフェント」と呼ばれ、イタリアの文化圏に属していたものである。
2.アイスマンの最後の食事は、小麦と薄切りの乾燥肉であったことが胃の分析からわかっており、入れ墨やお灸の跡も見られている。DNA鑑定の結果、アルプス北部周辺から200代前のアイスマンとの親戚が13人も発見されたということで、これもなかなか面白い。
遺体の研究は、インスブルグ大学を中心にオーストリア側でなされたが、発見場所がイタリア側に属していたため、現在はイタリアの南チロル考古学博物館において、発見時と同じ条件の温度−6℃、湿度98%の冷凍庫に入れて展示公開されている。
それにしてもイタリア側の人たちが、5000年前からフェント村にやってきて、羊などの牧草地として利用していたのに、オーストリア側の人たちがイタリア側にも行かず、牧畜もしていなかったのは、なぜか不思議なことのように思える。
山登りはできなかったが、それでもロマンのあるフェント村であった。
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