1.はじめに
最近、水田稲作はどこから来たのか、縄文時代に水田稲作はあったのかなど稲作をめぐる本を何冊か読んだ。(「稲作の起源を探る」藤原宏志著 岩波新書、「日本人の源流」小田静夫 青春出版社、「照葉樹林文化とは何か」佐々木高明 中公新書、「稲作渡来民」池橋宏 講談社)
その中でも縄文時代晩期(2600年前)頃の水田稲作の跡や農具が発見された遺跡として唐津の菜畑遺跡が紹介されているのが記憶に残っていた。
2008年4月19日、佐賀県の山や旅行仲間の人達が私の古希の祝いを古賀銀行跡(佐賀県重要文化財)で開いてくれた。私も長唄や三味線で出演してたのしい会食だった。
翌日の日曜日、呼子でいかを食べに行くことになり、名護屋城を見学した後、いかを食べて、唐津駅のすぐ近くにある菜畑遺跡を訪問した。桜の花も咲き残る暖かい日であった。 2.日本の稲作起源を1000年さかのぼらせた遺跡
「プラント・オパール」という言葉を初めて見たのは、岩波新書の「稲作の起源を探る」を読んだ時である。
「プラント・オパール」とはイネ科の植物に含まれるガラス質の細胞のことであって本体の植物がなくなっても、このガラス質のプラント・オパールは何千年でも土の中に生き残り、しかも植物の種類によってプラント・オパールの形がすべて異なっているという全く便利な存在である。
イネ科の植物にガラス質の細胞が含まれていることで、子供の頃、イネ科の葉でよく手の指などを切って血を出したことなどが納得させられた。すなわち、「プラント・オパール」を分析することによって、その植物が何であったのかを判断することができるようになったのである。
この方法によって、日本のどこかで発見された「プラント・オパール」を分析すると、それがどこから来たのかがわかるようになった。
「稲作の起源を探る」を読んだ時に推理小説を読むように面白かった。
前書きはこの辺にして、1981年に菜畑遺跡から約2500年前の日本最古の水田跡が発見された。このことによって、水田稲作が縄文晩期に行われていたことが明らかになった。
アジアの稲の品種は、ジャポニカ種とインディカ種に分けられるが、ジャポニカ種はさらに熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに分けられる。
現在我々が食べているのは温帯ジャポニカであるが、それでは菜畑遺跡の稲はどうか。ルーツはどこか。「日本人の源流」小田静夫p.102以下〈米のルーツ〉では次のような結論を出している。
少し前までは稲の起源はインドのアッサムや中国の雲南地方という見方が強かったが、現在では中国の長江中・下流域が起源で7000年前頃から稲作が盛んに行われるようになっていた。
この長江中・下流域での水田稲作の米は温帯ジャポニカということがわかった。そういうことから温帯ジャポニカと水田稲作の技術は朝鮮半島から菜畑遺跡に伝わってきたのではないか。と結論づけている。
3.菜畑遺跡から出土した物
この遺跡は、現在遺跡公園として整備され、水田も復元されて稲作も実際に行われている。私が訪れたこの季節はまた田植えには早かったので水田を見ることはできなかった。公園内では竪穴住居も復元されているし、縄文時代の樹木も植栽されていた。
発掘によって、縄文晩期後半から弥生中期までの水田と水路、畦、矢板列によって区画されていたことがわかった。
石包丁、木製鍬などの農具も出てきた。炭化米、アワ、ソバなどの種子、家畜のブタの骨も出ている。
これらの出土した炭化米や農具や土器、石器などは末廬館に展示されているので理解しやすかった。
遺跡公園の中に建てられている末廬館というのは魏志倭人伝に出てくる邪馬台国に至る「クニ」の一つ末廬国がこの唐津市であり、それにちなんで名付けられたのである。

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